民主化という名の効率化。

まずは極論から


・効率という言葉が断言することを拒む究極の結論あるいはコード。「人は生まれてこなければよい。」


・効率という名の権威は人の生活に寄与しているときにのみ、保証されるが、この言葉の究極結 論はこうなる。それは人の生活に効率という言葉がどれだけ権威を振るおうと望もうとも変わることがない。

 寧ろ出来ない。


・今もこれからも知的高度社会の発展は続いていくだろう。だが、効率という権威に上記結論を変更する力はない。

ここで確かに言いきれることは、高度に発展を続けていく、現行世界体制において効率化は、市場という自動化された人間の選択の総意という認証を必要とするこということ。この急激に発展を続ける社会に必要な緩衝材としての新しい役割を担うようになるであろうということ。



その度に市場は冷え込むかもしれない。効率化の劇的な怒りを買うだろうから。


ここで効率化に祝福されている名について、私はほぼ門外漢なので、彼らを単にプログラマと呼ぼう。彼らは軽快なプログラムを美しく書こうと毎日ガリガリ、コードに夢中だ。



ビジネスで喜ばれるコストの削減。それに対するプログラマの寄与は測り知れない。

また彼らはインターネットによって結ばれて踊りだし、自らの知識を無報酬で公開する。

私は今の過渡期のこの状況に日々恐々としている。

効率化に祝福された人たちが語る恐るべき言葉に恐れをなしている。


そして、大学を卒業して、無職の期間を3年に渡って過ごし、生活の必要からIT業界の多重構造を知ることのないまま、スーツを着た土方として両親に借財しながら、生活を糊する現在の生活の中で、はっきりと認知しておきたいことがあったため、私は上記のようなことを仮説ながらも書いておきたかった。確認しておきたかった。



私は今後生きている間、何かに忍耐をもって過ごさなければならないだろう。そして、誰の言葉に対して、頻度として最も多く忍耐しなければならなかったのかを、はっきり知っておきたかった。



効率化という名に祝福された人たちを私はプログラマと呼んだ。彼らの精通している用語に私はトンと疎い人間だ。はてなでよく注目されているエントリーを読んでも何を書いているのかさっぱり分からない。




私はネットにおいて知的弱者だろう。それを解消するどんな術もあろう。だが開き直るわけでもないが、私はただ自分の人としての姿を確認しておきたかっただけだ。



2ちゃんねるを筆頭とする炎上や荒らしを行う人が少なからずいる事を聞いている。
彼らが語る言葉は聞くに堪えないものに満ちている。彼らが自負している知識の高さに関わらずに。


知的に高い人たちが発する侮蔑の言葉に幸か不幸か接する機会に恵まれていた。

その言葉、その批判に私は今後も豊富に接することだろう。そしてその言葉に今後ずっと耐えていかなければならないだろう。


その事を確認しておきたかった。