モラトリアムに関する素朴な疑問
大学生でいる間は決して自覚できないこと。
知的・肉体的には一人前に達していながら、なお社会人としての
義務と責任の遂行を猶予されている期間。または、そういう心理状態にとどまっている期間。
大学を卒業してから、この期間のありがたみを痛感します。
社会人としての義務と責任を猶予されるってこと云々の前に、受験生の時は、とにかく、大学に入るってことが、至上命題でした。
でも、自分なりに生活しないといけないってことを学校を卒業して感じるようになると、もっと詳しくこの期間の意味の説明を受けときたかったなぁと思います。
社会人としての義務や責任に関して、とやかく言うことが出来る立場に、今も僕は居ませんが、そういうのをきちんと説明することを誰かに求めることは、甘いんだろうか。
KYということだろうか。
空気さえ読むことが出来れば、社会人の準備は出来るもんだろうか。
そんなに社会を構成していることを実践することは容易いことなんだろうか。
新社会人はよくこんな小言を聞くそうです。
「当たり前のことが何故当たり前に出来ない?」
社会人にとっての当たり前ではなくって、例えば挨拶をしっかりすることや、コピー取ってきたり、報連相をしっかり行うことなんて、学校生活ですら求められることだろう?
という言い分なんだそうですが。
ところで、社会は個人プレーで動くことは殆ど少なくて、チームプレーで動かないと、ほとんど何も出来ないという徹底された構造です。
現在はインターネットが普及しているので、個人的に色々できることは沢山増えましたが、例えば、個人的に活動を行っておられる方々も、その活動を評価する団体なり、組織なりに、良い評価を信頼として、受けて成り立っていると思います。
たとえ、大学生が自由だといっても、大学を出たら組織の論理に必然的に組み込まれるのだから、そういう、極めて重要な組織の中で必要とされる組織びととしての振る舞いを、何故か、会社に入ってから、罵声とともに、学んで行け!というのが、暗黙のルールのようで。
会社で働いている人、これから会社で組織びととして、頑張る人、双方にとても不効率なシステムが、平然とまかり通っているんですね。
怖いことです。
何が言いたいのかと申しますと、要は、大学に入って得た自由は、社会通念上、与えられたもので、決して無料ということではないんだ、ということを、責任ある立場の方々が、格好悪くても、未来のある学生さんに厳しく伝える必要があるんじゃないかということです。
学生さんは沢山の不安と期待を膨らませて、未来を夢見る。それは明るければ明るいほど、素晴らしいものだ。
その明るい夢を実現する為には、強い足腰を持たないといけない。
その強い足腰とは、組織びととして、要求される基礎を徹底的に鍛え上げておくことだ。
その重要性は、いくら強く語っても、語り覆えないほど、夢を抱える学生さんに必要不可欠だ。
その学生さんが、例えば、野心的で、強く成功を夢見ている人で、いつか独立を志向している人でも、組織の論理を学んで、損することは決してない。寧ろ、独立して、個人で活動する分だけ、自分が取引相手として関わる組織の動きに関して、鋭敏な感覚を養うことは重要で、不可欠なことだと思います。
この強い命令染みた勧めに、対する学生さんの反応は二つに一つしかないはずです。その勧めに従うか、反発するか。
たとえ、この勧めに反発する学生さんがいらっしゃるとしても、その勧めの大元にある、生活の至上命令は、その反発に対して、繰り返し繰り返し襲い掛かり、その学生さんの希望をすら打ち砕く力を持っていることを、彼は学ぶでしょう。
それを分かった上で、個人としての弱さを痛感することは、また非常に重要だとしても、それを痛感するに払う代償は、彼個人にその責めを帰せられますが、購うにはとても、とても大きく、そのため不効率であると言えます。
大学をやめても、会社をやめても、家に引きこもっても、人間関係を止めることは、人として困難です。不可能です。
大学に入って、モラトリアムの授受の際、この注意書きを添えるだけで、省かれる多くの無駄を省くことは出来ないでしょうか。
若さは過ちに満ちています。それこそ、若い人の特権とも言えるかもしれません。
18年かそれ以上を生きて、たとえ人に誉められる実績など無くても、一端のものになっている人の、吹くだけでたじろいでしまう自負を、守る為にも、そういった施策が、時代を問わず必要なのかなと、感じたワーキングプアが通りましたよw
と。