厨二あるいはその病について。

その厨二ってやつが問題やな、と。
誰もがそんなことは空想だと笑ってられるかという問題に。

先人たちは苦労して考えた。
苦労したどころではない。
その問いに命を賭した人もいた。

目を覆うような日々を送り、蔑まれてもなお、
彼らはそこでしか生きようがなかった。

誰もがその時期を通る。
みんな大人になって厨二を笑う。
笑うけど、それは本当に確かな事かと。
空想の中には虚無がある。

誰も目にすることなど出来ないって。
僕らは笑う。

それでは私たちは自分自身の存在という言葉もまた
空虚なもんだなんて言う。
でもそれは逃れられない。
逃れられたら、そこにはもう誰もいない。
どんな日々を過ごしていようと、
私たちも今生きている日々は幻だなんていうと
それは違うという。

命には価値があるという。
どんな命にだってという。
虚無の中にだって、人は真を望む。
そういう矛盾の中に、歴史の胎動が生まれる。
人は安心したくて哲学する。
哲学者は、哲学する自分自身だって疑う。
しかし、その最後のところまでは、疑い得ない。
そう言う。

厨二病を拗らせた三十路の僕は思う。
話半分で聞いていただきたい。
つまらんドカタのつぶやきだ。

その病を拗らせながら、執拗にその言葉の周辺をうろつこうとしてみることなんて
無駄なものだ。
もっとちゃんと洗脳された方がいい。
現実を見よ。
現実を見よ。

現実が如何なる空想に拠って、成立しているかを
眺めてみよ。
極端に眺めてみたら、
それは、本来、在りえない空想に大群ひきめいて、僕らがその空想に
しゃがみこんで、有り難がっている画に成らないとは限らない。
これは駄洒落。

みんなが生きている虚は現実。
そこに見えているから確かなものか。
その手ごたえを手のひらに指差して見ることが出来るか。
幼子にこの現実の手ごたえを教えることが出来るか。
幼子にとって現実とは、温かい母の温もり。

その確かな手ごたえを握っている幼子にも
現実の生活は、明確に例えて説明できるものか。

というと、この説明はほとんど不可能に等しい。
しかし、その不可能に挑もうとしたのが、すべからく
厨二を拗らせた人たちだと、
恥ずかしくもあきらめとともに思う。

そういう、厨二病の厄介な症例を直に生きてみて
自分を自他ともにおっさんと呼ばれうるまで生存を続けている
おっさんの酔わなくとも、語る真夜中のつぶやき。

イラっと自分で来たら消しますから。
それまでほっといていただけたら幸いかと。

2010元年早いけどまとめ

ipad日本販売が5月末で、アマゾンkindleが単独で切り開いた電子書籍市場を一気に賑わしました。
さて、日本市場の今後の動向が気になります・・・・・・・・となってから半年が過ぎましたね。

さてさてGoogleアラートで「電子書籍」と設定し、半年間配信されてくる検索結果を追い続けてきました。

幾人の識者のエントリーなり、つぶやきなり、何なりを出来る限り目を通してきましたがやっぱりなことが起こってしまいました。

現行の出版業界を含めた供給体制間の既得権を持った団体の方々が、とりあえず電子書籍団体をいくつもいくつも作り上げ、抵抗体制を築き上げた。
シャープがコンテンツプラットホーム事業に資源を集中させる方針を発表したり、ドコモさんがスマートフォン事業を本格化させたりと、変わらない国内市場が若干活況を取り戻しました。


ただ、日本語コンテンツが読者に届かない。相変わらずipadでもkindleでも日本語のコンテンツが回らない。
ユーザ自身で自分自身の必要に応じて自炊する以外にない。
しかもそれを牽制する動きもあるようです。

これらの動きは供給側の動きの遅さに起因しているのは明らかでしょう。
まだ売り出してもいない端末。
まばらにしか置かれていない販売プラットフォームの乱立。

今の日本市場の電子書籍の取り組みはほとんど読者を無視した形になってしまっている。
代替物としての紙媒体があるのだから、十分だろう。
そういう展望が滲んでくる。


読者の要望は単純なもので、ケータイ端末上で現行の紙媒体と変わらない水準で読むことができるように出来たらいいだけだ。
この要求の中には現行の紙媒体とは、現行の日本語コンテンツの豊富さを意味する。
kindleiphoneで書店で売っているものと同じものを読めたらいい。
だたそれだけだ。


facebooktwitterとの連携機能に関してはまた後の話だ。

しかし、それはこの半年では成らなかった。
アマゾンjapanの出版社との協議もアップルの協議も遅れているのだろう。
来年にはそれは簡易化されるだろうか。
ユーザーが自分自身で電子書籍を集め、購入出来るサイトに一々飛んで、という手間を踏んでくれるだろうか。
そういう手間があと1年ほどの期間で解消されるかは、この半年を見てきてとにかく難しいのではないかと考える。

読者側に手間暇掛けさせて、現行の既得権益を維持する体制がそう短期に解決されるとは思えない。

僕が待っているニュースタイトルは「Amazonapple)、大手出版社との既存コンテンツの電子書籍配信協定締結へ」だろう。

電子書籍市場普及の障害etc in 日本 

最近電子書籍に関するエントリーをあれこれ書いていますが。

今日も、続き。



アマゾンジャパンも卸から本を購入しているという事は。
卸が電子書籍の販売をアマゾンと出版社が勝手に提携して行うなら、紙本は売らない、なんて決定をされたら、アマゾンジャパンはきっと日本でDTPサービスを実施するのは殆ど、数年後になってしまうかもしれない。

電子書籍化されることで、完全に卸の機能は無用になるから。
それじゃあ、紙の本売ってあげないとか余裕で起こりそう。

考えられるシナリオで最悪なのは、印刷会社、卸、書店の売上を守るために、コンテンツ提供者である出版社が急に権力を拡大することになる。

しかし、出版社側も、これまでのお付き合いを優先するだろうから、電子書籍化への移行は甚だしく躊躇するに違いない。

また、出版社側も、卸側に借金をしているそうだから、そういう意味合いからも電子書籍化を阻害する要因になりそうだし。

紙媒体の売上を上げる為のマーケティングツールとしての電子書籍とかそういう理由でもない限り、紙媒体と電子媒体の共存というのは難しそう。

そして海外マーケットの紙媒体と電子媒体との共存状況をある程度見越してからでないと、結局大勢は、動かなくなるだろうし。

とか何とか言っている間に、数年があっという間に過ごしてしまう。
そして、日本のガラパゴス化の一例となっておわり。

立ち読み中継

なんて考えていたけど。

そうやって本屋を回っていた時の感想。

いちいち考えている事を呟いて入れるか!

なんていう考えが浮かびます。

要は、自分の中に浮かぶ思考の海の中を、本屋の中で不審者さながら泳いでいる時に、
何か手元を動かさないといけないのは、ちくと面倒。

初めからそうするぞ、と意気込まないとやれない事なのかも。

えいっと意志の努力が必要だから、そうそう気軽にはやれないかもですねw

Twitterを使って立ち読みライブ中継!!

なんて言う事を考えていた。

ジュンク堂梅田ヒルトン店にて。

立ち読みっていうのを、僕は好きで、どの本を買うのか、どの本がお金を払うに値するかに関して考えながら読んでいくと、考えが深まっていく事が面白い。

そして立ち読みloverにとっては、書店がなくなる事はとても困る。

文字通り、本好きは考える事がメインになっているから、考えることが、体と直結しているという事を自覚する事はほとんどない。

けど、あらゆるジャンルの本が並んでいる中を、歩きながら探す事は、頭にとって、考えることに対してリズムを与える。

それが、どういう次第によってか、考えを深めるきっかけを与えてくれる。

あ、そういうことか。
んん?
そういう事が本屋で立ち読みに行くと起る事がある。


書店で座り込む事は、他のお客さんや、店員さんにとって非常に迷惑になる行為だから、決して誰もそんな事をしちゃいけない。

時々しゃがまないと、しんどい時は仕方ないけど。
そういう時は一度、お手洗いなり、別の休んでいい所に向かえばいい。


そうやって考えを深める時は、ネットを見ている時より、思考が自分のものになる。
本屋で立ち読みしている時は、思考が自分のものになる。
誰が何を持って言おうとしているかが、本を開き、本を閉じることで一旦終わる。
それを反芻する時間を確保する事に心配がいらない。

しかし、ネットでは、常にウィンドウを開く事が出来る。
今読んでいる事も、いつの間にか修正されている。
頻繁に更新され得ると言う事は、逆に読まれた情報の信頼性を犠牲にしているとも言える。
仮にインターネットで制定された法律があったとしても、それが頻繁に更新されるなら
だれが、その法律に従い得るだろう。

この仮定は確かに、極端な例だとしても、その面は確かに、人が言葉によって読む行為の中に存在する。


んでここまでが、立ち読み礼賛。

そうして、それを今自分がこんな事を考えている、ということを本屋のそばで呟けるなんて事は、結局Twitterとの高い親和性があるようですし。

今、本屋に客として来ている人が何を考えているのかを、ログとして確認出来るTwitter
アイディアとしては悪くなさそうだけど。

もう誰かそういうサービス作ってそう。

在ったらだれかに教えてほしい。

ネットに期待できる事。期待できない事。

もし、そういうものがあるならという話。

ネットを本格的に自分がいつも目にする媒体として利用するようになって数年が経過しています。
そこには常に最新の記事があって、古い記事はどんどん視界の外に追いやられていく。


そして、時代に取り残されないように、次第にどんどん最新の記事を追っていく。
そんな生活をしばし数年送ってみて思う事。

たとえばニュース速報であったり、注目ブックマークを追ってみたりしていたら、気づいたこと。

たとえば、はてなブックマークを追っていくうちに、ある一つのエントリーに関して様々は反応が起こった。

其のエントリーに対するブックマークコメントがついて殆ど炎上と呼んでいい状態になった。


炎上したエントリーに対するトラックバックエントリーが次から次へと起こっては注目のブックマークを集める。

そして、その炎上に対する注目がピークを過ぎて、倦怠感を覚えるようになった瞬間に、別の注目記事に遷移する。


それを数度繰り返すうちに気づいたのだけど、自分が数日前にどんな記事を読んだのか正確に思い出す事が殆ど不可能になってしまった。

加齢を言い訳にすることも可能だけれども、ここで仮説を立ててみるなら。

ネットの情報は爆発的に増えて行く。
其の爆発的に増えた情報をたとえば力の限り追ってみいたとしても、
何の印象も残らない。
何の印象にも残らないのなら、読まれたことにすらならない。
ただ記録として残されるのみ。


それを逆説的に敷衍してみるなら、自分が書く事にどれだけ心血を注いだとしても、その記事はネットユーザーの殆どの人々の記憶にすら残らない。

自分の喜びも悲しみも、何かを決意し、言葉に刻もうとしても。
それを期待してはいけない。

不特定多数の数瞬をかすめるに過ぎない。
其の事にネットに投稿する記事を書く人は、渇く事はないだろうか。