[小林秀雄][随想][時]考えるヒント



先日、小林秀雄さんの「考えるヒント・2」を読み終えました。


久しぶりに文庫本コーナーに立ち寄り、彼の著作の中でも、読みやすいものとして読み進めていく内に、閉店時間が迫り、まだ読み終わりたくないなどと考え、購入してしまいました。

「考えるヒント・2」で描かれているのは元禄の時代に活躍した私学の雄、仁斎、徐徠に関するものが多いため、日本人には親しい記述となっています。



彼の著作は「本居宣長」に集約されるが、この著作に蒔かれる種が考えるヒント・2の随所を満たしている。



論語は人倫日用の学と書いても既に難解を含むかもしれないが、周の文武両王の道に学び遊んだ人、孔子とその人となりに募った人たちの対話の記録だ。

彼の学んだ言葉は後代に多大なる影響を与えたが、彼が生きようとした道にならって遊び、悟得を掴んだのは、程朱ではなく、仁斎、徐徠だった。


この2人が掴もうとしたのは、文献に浮かぶ孔子の語勢であった。孔子が文武両王の道に習おうとしたのも全く同じだっただろう。彼の両王に対する深い敬意がその道へ自ずから彼を導いた。



孔子が文武両王に深く感動し生き、歩んだ道を見いだすには、彼に深く感動し生き歩む以外に方法はなかった。


時代を同じくしないでも、国を同じくしなくとも、彼らが深く出会わなかったとは言えない。



それを可能にしたのは紙という媒体だった。



今の私たちにはインターネットという媒体がある。



通信技術は劇的に発展する。


だが人と人が出会うということ、人が共にあるということは何時だってどこだって困難だ。

そのことを易しいと考えたり、必要を越えて畏れたりしないようにするのはとても難しい。



技術の不可能を笑うのではない。その困難が必要とするだけの恐れを忘れまいと努めたいだけだ。




コンピュータはヒトの可能性を広げた。そのことが齎す、迷信と自負を土台とする傲慢に注意を払いたいだけだ。


コンピュータがヒトに豊富に与えたのは退屈な一人の時間。発狂するのには十分過ぎるくらいの。
現にネットで注目を集めるのは、奇怪に冷めた行い。


ここで倫理という領域は豪雨の中に置かれたろうそくに灯された一片の火のように危うい。



どんな奇怪な目論見が人とのつながりを保証するか。