日本における社会という名に隠された宗教とそこにある社会人


「やってはいけないことは理由が理解出来ようが出来まいが、やってはいけない。」


ある日のネットに流れた日記に書かれていた言葉。



世界で日本は話題になっているそうです。だけど、私たち日本人はそれを理解して説明することが出来ない。


私はそれに関して何か特別に考えた訳でもないが、この身に当たって、非常に苦労してきたし、今現にしているし、これからも苦労していくに違いない。



それを言葉にして、確認し、ごく1人の人にでも、見て貰えたら、それで十分。それがこれを書く動機です。


宗教の話題は侮蔑を持って語られる。公にと書く要もなく、一度聞いて怪訝な顔一つ出来ないと、疑われ兼ねない。



日本教という名を始めて使ったのは山本七平という人だ。


日本という国を、其処に生きた人、今生活している人、これから生きていく人を宗教的共同体として見なしうるとした人です。


私たちは無神論を誇っている。あからさまに語られる形而上学を明らかに嫌う。

空気を読める事が重視され、如何に上手く空気を読まないで生きるかの要も説かれる。

流行という有り難い御言葉が絶え間なく触れ周り、そのことへの服従に敏感でなければ、息も認められない。

日本人として、世界に理解して貰うには、自らの宗教を説明出来なければならないだろう。



不文律を大前提とされるこれらの教えを彼らの宗教にある言葉を使って説明できるようにすること。


時に応じて、文明の機を違うことなく、捉えてきた柔軟な宗教。その精度が的確だったかどうかは歴史に裏付けられている。


今の文明の急速な発展においても、既に司祭は存在し、少なからずその言葉に対応している人がいる。



福沢諭吉という司祭に動かされた無数の経済人の大胆な決断によって果たされた列強参加。


今の世代を生きる私たちの内にも、この困難を乗り切る為に力を蓄える無数の声を上げる少なくはない人たちがいるに違いない。

それは私だと思えた人たちから、突き進んでいる。

自ら生まれた国が、日本であることを今一度誇らしいものとするために。


かの連帯を自ら担って進もうとしている人が無数いる。



変わらない歴史の確からしさをここに見る。



どういった誉を彼らが担うか。