はてな村の人たちに対する知的弱者の疑問

はてなを利用して4ヶ月になる私の頭をよぎった疑問。

はてな村では日々絶え間なくエントリーに対するエントリーという形で議論が繰り返されている。


ある記事には、その様子は戦いだと書かれてあった。

私は大学生の頃まで大手出版社が発行している言論を興味本位で追った覚えがある。

その言論はどれも正しさに満ちていたが、読後感として虚しいものばかりだった。


誰もが正しく、誰もが論戦に明け暮れていた。


だけど、どの評論家も、よく物を知っているにも関わらず、同じ病の中にあった。


声高な専門家に対して、物言わぬ読者の沈黙という対比がある。

物言わぬ読者だった人たちが、ネット世界を得て、物言うユーザーとなった。


評論家の権威が疑わしくなったのは、読者の関心を評論家が引きたいだけという魂胆が読者の声高にならない沈黙の中で認証されてしまったから。


その後、ネット世界で発言するユーザーとなった人たちは論戦をそこで繰り広げている。

自らに寄せられていた、沈黙という特権を投げ捨てて。

何故、評論家が権威を揺るがせた所の病に自ら陥ろうとするのか。

沈黙という権威の中には常識が息づいているに違いない。その信頼を比較的まだ小さい段階から消耗するのは、気が早いのではないか。


建設的ではない論戦を無限に繰り返すことは多分に楽しい。ネットは無限だから、どんな気まぐれも原則的に許される。
しかし私は、ネットに置ける弱者の立場で聞いた言葉を連想してしまう。

「コンピュータの計算能力が劇的な速度で向上しようとも、無闇にそれを信頼し、無駄の多いソースを書くプログラマを優秀とは言えない。優秀と言われるプログラマはいつも資源の有効活用に配慮しないといけない。」

ネットの発言において要領を得ない発言は馬鹿にされよう。馬鹿にした本人は自身が何を語ったか理解していないにせよ、そこは目を閉じよう。


だが自らを知的に見せたい、そう見立てたいなら、然るべき方法はあるだろう。

それを私は明言しはしない。知的に高い人たちに意見出来る何かがある訳でもなく、既に分かっている人たちにそれを明言することは、くどさの故に、笑われるから。