時代の枯渇を浮かべる霧

2週間くらい前に削除したエントリーのタイトルが、上記のタイトルで一体何を書こうとしてそういうタイトルを付けたのか、もう思い出せないけど、言葉を読んで見て、大体当て勘ながら、書いていってみたい。


ネットの社会的プレゼンスは日に日に高まるばかりなので、旧態と呼ばれる体制は、もはやほとんど悲鳴をあげている様子です。


そういうネットに浸かってみるかと考えて、ロムに徹するだけでなく、こんな風に日記を書いてみる事を数年繰り返してきました。


んで、ITニュースや、技術関連の記事に何を書いているのかも不明瞭なままただただ、読みこなして行くうちに、ぼんやり理解出来て来て、実際にIT関連の業界に就職し、もう少しだけ何が書かれているのかが分ってきたという所です。

そういう自分が今に至って、はてな、はてぶ、はてだ、MIXIをループする生活を送っています。


そうしたら、そのループが僕にとってのネットであるという認識が育って行きました。


そしてまあ、ネット読者歴3年と言った所です。


そして、今ネットというメディアに関して、唯一にして、絶対の枯渇を僕は経験するように至った次第です。


Googleの新サービスリリースというニュースに関しても、ああ、と感じるようになり、
はてながこんなサービス始めましたと書かれても、ああ、と感じるようになり、
MIXIがこんなサービス始めましたという事が書いてあっても、ああ、となりました。


そういう慣れが出てくるころ合いになってきた。

そういう時に出てくる気づきっていうのは、個人的に信頼しているものですが。

先に書いた絶対という言葉は、幾分誇張ですね。すみません。

しかし、でもこれだけ頻繁に、これだけの頻度で感じてしまうなら、それはもうほとんど確信めいてくる。

ネットを目を細めて眺める人が少なからずいらっしゃる。
そのことも考慮して、明言は避けたい。

ただ、僕にはそれが僕にとってのループの内側にあって感じた枯渇であり、その枯渇の源が霧のような情報の海、まさしくネットの中に見出してしまったという点に関しては、はっきり書いておきたいと思います。