伝統を紡ぐ言葉。

京都に来て3年が経つ。


千年王都の魅力に引かれ、また京都に籠もることで見出し得るものもあろうという思いから、3年が経った。



「京都は京都だ」という認識を持つにはまだまだ、浅いが、深めることを恐れるようになった。



特に空気の張り詰め始める秋から冬にかけてのこの土地の切なさはこの国に住むすべての人の詩情を震わせる、と言っても過言ではないように思う。


特に早朝の光景は。

建物は静まり返り、小鳥が囀る。空は晴れ渡って、空気が涼やかに冷え込もうとする。どこからともなく辺りを包む旬の名物を作り込む香りが、其処に居合わせる人々の詩情に訴える。持ってくるつもりもなかったのに、紙とペンを探し始める。




紅葉の絶景はこの国どころか、全世界の人々を魅了する。


京都に住んで通勤途中、
人も少ないバスの後部座席に、
今だ晴れぬ眠気眼で見据えた、
西にある、名も知らぬ山の頂きを包む、
紅の衣に身を飾る有様に、
図らずも息を呑む。
「美とは求められないまま、出会う時、驚くほどの正確さで、人を捉える。」
そんな直感をケータイのメモ帳に残しては消した。


京都で聞いた言葉を思い出す。彼は言う。「超常識」と。
「常識とされる、当たり前のことを当たり前ではない水準にまで、目指し、維持し、発展させ続けること。」


私が聞いたのは、京都嵐山で人力車を営む社員の方の言葉。宣伝するつもりは毛頭ない。


彼は揺ぎ無い目で、この言葉を語り、繁盛期に備える時間の僅かな時、愛おしげに彼を超えて佇む紅葉に魅入っていた。その光景を私は思い出したに過ぎない。



私が京都にあって、驚くのは、この京都の一端で耳にした言葉が京都に住む人たちの底流に確かに流れているのを見た時だ。


そこに京都の深さを見出さずには居れない。1000年を超えてこの国の頭を務めてきた土台を其処に見る。その土台は今もこの土地に見出しうる。


また京都の中に抱かれた3年間、この土地の印象は揺らぐことはなかった。住みやすく、過ごしやすい。だが、外の人は入ってきにくい。入りにくい空気ももちろんあるし、街並すら、そうなっている。堀川御池で待ち合わせるのに、説明を要する人には冷たい対応と映りかねない説明が、阿吽の呼吸で済む。



また個性的な人も多い。その人の個性を見出すにはまた忍耐も必要だ。言葉尻も辛く、一筋縄では、いかない。






今この土地にある人と、底流に流れる伝統と、街並の美しさの調和を見出すまでに、私には忍耐が必要だった。この国に生まれた者として確認しておきたかった。


今は王不在のこの街に救急車のサイレンが悲しげに響くのを私はいたたまれずに聞く。